本の種類にはあらゆるものがあり、文学、専門書、伝記、指南書、絵本、テキスト・・・etc. それをさらに細分化していくと、あらゆる視点の持ち方があり、あらゆる価値観があり、あらゆる世界観があることがわかりますよね。そしてそれを選択する側にも、あらゆる精神世界の構成の仕方があって、それによって本の選択の仕方も違ってくる。
あるひとは知っている世界をより強化するための本を選ぶかもしれない。 またある人は自分の力では想像もできない世界を知るための本を選ぶかもしれない。
情報を得るためだけの本を選ぶこともあるし、How to本を選ぶこともあるし、他の人の人生や感じ方を追体験できるというのも、本を読むことで得られる大きなことであるのは間違いありません。
いずれにしても、本を読んだ後は少しだけ世界の見え方がかわっている。
以前読んだ本の帯に書いてあった言葉で、非常に印象的だった言葉があります。
「優れた科学者の書いたものは、昔から凡百の文学者の書いたものより、遥かに、人間的叡智に満ちたものだった。つまり、文学だった。」という高橋源一郎氏の言葉。分子生物学者の福岡伸一氏の「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書 2007年)の帯に書いてあった書評です。
この言葉に首肯した人は多いのではないかと思います。
いわゆる文学だけが文学ではない。文学だけが美ではない。文学だけが示唆を与えるのではない。文学だけが世界の表現者なわけではない。
11月3日の朝日新聞朝刊の日展の広告には、日展理事長の中山忠彦氏と数学者の藤原正彦氏の対談が載っていました。そのなかの藤原氏の言葉。「世界的水準で日本が特に優れた分野が、文学、芸術、数学、理論物理学、化学だと思います。この5つは特に美に感動する力、つまり美的感受性を必要とする分野です。」。美的感受性は、文学や芸術に必要なのは誰もが認めるけれど、それだけではなく数学も、理論物理学も、化学も同じように美的感受性を必要としていると。
よく、数学者は数学的世界を「美しい」と言いますよね。私は数学は好きだけど「美しい」かどうかわかるほど理解していないし、化学的な美しさというものも、勉強を怠ってきたために、その美しさを見るためには備わっていなければいけないであろう基礎と言うものが全くないと言い切れます。それでも、なぜそれを「美しい」と思うのかには非常に関心があって、少しでもその「美しさ」を理解したくて、科学者や数学者の書く一般向けの本を読んだりします。
以前、どんな本を読むか聞かれて、科学者や数学者の書く本を読むとはなしたところ、軽蔑の色をありありと見せられたことがあって。「そういう輩の書いたものを読むようなやつは・・・」と言われ、それを受け入れ難く感じたんですね。小説家だけが人間を、また世界を理解し、真理を発見し、記述しているのか。小説だけが美しく意味のある世界をみているのか。
ここにきて、先述した2人の言葉にこそ、私は票を入れたいと思うんですね。人間の目の解像度を越えて世界を大に小に見た科学者や数学者たち。人間の可視聴閾を越えてものを見、聞いた科学者や数学者たち。さまざまな形や色をまとった自然の中にシンプルな数学的ルールを見た科学者や数学者たち。おそらく、私たちが「紅葉がきれいだ」とか、「雲が美しい」と思うのと同じように、科学者や数学者も、別の解像度で、その科学的視界・数学的視界の中にあらわれた世界を発見し、同じように心が震えたんだと思うんですね。
えーと・・・ここまで力説しまくっていったい自分が何を言いたくてこれを書いていたのか方向を見失いないつつありますが・・・、「美しい」ものってなんだろう、と常に考えるなかで、自然の中に身を置いたり、散歩したり、海をボーっと眺めたり、美術館へ行ったり、音楽を聴きに行ったり、映画を見たり、舞台を見たり、本を読んだり、写真を撮ったり、いろいろするけれど、それだけではなく、一見世界がちがうようにみえる数学者や科学者の本の中にも、実は美を感じるうえで非常に示唆的なことが含まれているのかなと強く感じるという、人の言葉を借りての、ながーいながーい内省でした。
なんだか私の言い方だと、文学を斥けているように自分でも聞こえてしまうけど、決して文学を否定するわけではなく、むしろ、文学作品も読むということを、最後に言い訳しておきます。絵本も集めたいと思っています。
思い付きで言いたいことを言ったあとは、明日の予定なのですが、今週の休みを振り替えれるところが気づけば明日しかなくなってしまったので、明日、お休みする予定です。現像に出していたスライド写真をとりに行って、映画「小さな村の小さなダンサー」を見て、本屋へ行って半日くらいはつぶれて、電子レンジが壊れたので電気屋行って、夜は米良美一氏のコンサートに行くというのが、理想的な明日のスケジュールです。明日も、美しさにいっぱい胸打たれるために・・・